訃報に際して


「山梨の人? じゃあ、いい人なんだ」
 十数年前に名刺交換をしたとき、米長邦雄永世棋聖は私にそう言いました。甲府市生まれの私は、増穂町(現富士川町)生まれの米長永世棋聖とは同じ山梨県出身。私の姓が山梨県に多いものなので、冒頭の言葉となったわけです。含みがありすぎて、どう反応したものかとまどったことを覚えています。
 無為の日々とは対極にある人でした。やり残したことも多かったことでしょう。今はただ、安らかな眠りを願うしかありません。心からご冥福をお祈りします。
 週刊将棋は来週発売の年末合併号で、予定の紙面を変更して棋史に残る英傑の死去を報じます。

「週刊将棋」編集長 雨宮知典


 プロ野球に例えるなら長嶋茂雄。米長邦雄は記憶に残る大スターだった。
 私が将棋連盟の書籍編集部にアルバイトで入った年に、米長先生が悲願の名人になった。隣の将棋世界編集部では大崎善生編集長をはじめ大勢の人たちが送られてくる指し手に一喜一憂し、凄い熱気の中で49歳名人の誕生を迎えたことを覚えている。
 将棋世界編集部員になってからは、さまざまな著名人たちとの対談取材に同行した。武豊さん、志村けんさん、藤沢秀行さんなど。米長先生はそのどの方たちにも引けを取らない華があった。
 米長先生が将棋連盟の会長になる前年、愛媛県今治市で「将棋の日」が開催された。前夜祭のあと、ほろ酔いの米長先生が「うちの部屋へ行って飲もう!」と、私を含む職員数名を自室に誘ってくださった。
 ビールをぐいと飲み干した米長先生は、「よし、みんな明日はがんばろうじゃないか」と威勢よく立ち上がり、おもむろにズボンと下着を下ろした。目の前のイチモツに我々は面食らったが、そこは男同士、一緒に付き合ったのはいうまでもない。変なエピソードだが、かけがえのない思い出である。
 米長先生が会長になってから、私は将棋世界編集長を任された。会長は誌面作りにあまり口を挟まず、自由に作らせてくださった。かれこれ5年近くも編集長をさせてもらっているが、感謝感謝である。
 今年の春、米長先生は「電王戦」で久々に我々の前に勝負師の顔を見せてくれた。しかし、それからは目に見えて体調を崩されていくのが分かった。
 10月頃のある日、将棋連盟近くの道で偶然、先生とすれ違ったが、会釈する私の顔を見据え「頼むぞ!」と手を上げて駅に向かわれた。それが最期のお姿だった。
 謹んで御冥福をお祈りします。

「将棋世界」編集長 田名後健吾

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